昭和43年06月25日 朝の御理解



 御理解 第20節
 「此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。」

 御理解20節、これは天地金乃神のおなげきというよりも、金光大神のおなげきと感じられますね。金光大神が此方金光大神が、天地金乃神よりおかげを受けて来た事を話にして聞かすのぞと、その話を聞いて信心をしていけばおかげが受けられる、助かられるんだと、金光大神が身をもって体験しておられる、証しを立てておられるのである。其れを疑うて聞かぬ者は是非におよばんと、可愛いものじゃと、ここに金光大神の悲痛なまでの悲しみを感じますね。
 それでももう仕方がないというて、縁なき衆生は度しがたいと、言う様には思うておられないのですね。それでもです、時を待ってお蔭を受けるがよしと、何時かは分かるだろうと、こう言う事を聞かん子の後ろから、後ろ祈念をしておられるという感じですね、銘々に子供を持って合点せよと。親の言う事を聞かん子が一番つまらん。金光大神の御子の中にも言う事を聞かれる子もありゃ聞かれん子もあった、聞かれんどころか親の言う事には反対ばっかりして、金光大神を困らせなさった子もあった。
 そういう自分の身につまされたもの、自分の体験からこの様な御理解になっているのでしょうね、言う事を聞かん子がもう一番つまらんと、言うても切々たるその親心というものをやはりかけておられる。あれが子供を持ってから分かるじゃろう、分かった時にはまた話して聞かせようという、もう知らんというのではないのである、もう言う事を聞かぬ子が一番つまらん、言う事を聞かぬ子は親もしかたがあるまいがと。
 ここん所をですね、私は皆さん金光大神と私とをひとつ置き換えてね、金光大神と親先生をひとつ置き換えて、聞いてもらいたいと思うのです。此の方金光大神と又は、私此の方大坪総一郎が金光大神のお取次によって、おかげを受けて来たことを話にして聞かすのぞですね、ここでは。これが皆さんに一番実感的に身近ですはね、それでも疑うて聞かん者は仕方がない。
 昨日もう長年御無礼して、この椛目のいわゆる神愛会が創立時代に、熱心にお参りをして来て、もうほんとにこの人が合楽の【 】椛目の実意丁寧な形を作ったといわれるくらいに、本気で一生懸命信心なさった方が、どうした事からか疎遠になってしまいましてね、時々は寄りなさったけれども合楽に移ってからは初めて、昨日午後ちょうど4時の御祈念、1時間ばかり前でしたが、御祈念までおられまして色々お話をして行かれたんですけども、もう何というでしょうかね。
 もう自分でも非常になやんでおられるですね、もう大変な財産家なんですよこの人は、「けれども先生私ももう昔でいうならば、人生わずか50年というその50の坂も越してもうこれから先は生き儲けだと、けれどもこれから先生きていかんならん、生き甲斐というものが全然なくなりました」というて実に寂しい、私と久富先生を前にして話されるんです。私の控えでお話をするんですけどね、それからというて私がおかげを受けておることをね話してあげても、全然はいっていかない感じです。
 「しかし〇〇さんこげな有り難い道があるとですよて、こういうおかげの頂ける道があるとですよ、私はまあこれから何十年お生き延ばしの、おかげを頂くかそりゃ分からんけれども、もうそれこそうれしいやら楽しいやら、これから先どの様なおかげになっていくだろうかと思ったら、これから先の生きがいというものはね、もう本とに言葉じゃ出しつくされん程ですよ」それをですね。
 そう言う事知っておられるのでもない筈ですけど、疑うておられるか分からんけれども、もうそれは特別の物の様にこう実感されない感じですね。まあ本当に金光大神ならずとも仕方がないなあとこう思うのです。50の坂も越えてもう人生、のいはば僅か50年という、その50年は過ぎたが、これからどういう風にして生きて行くかと、生きて行く楽しみがない。もうそれこそ金は腐る程ある、もうとにかく山なんかを入れたら、どれだけ財産があるかわからん、という程の方なんです。
 けれども言うならば5尺の体の、置き所のないごたる焦燥を感じとられる様でした。金光大神ならずとも私はねえ、何とかこりゃ本当におかげの頂ける手立てはないものかと、やっぱり思います。送り出しまして皆ここに出て参りましたから、若先生、久富先生、末永さん、それから光昭と、丁度ここん所石庭の前で、まあ色々お話をするのですけどね、その時にこの若先生が、一つ一つ分かっていくことは、私は非常に有り難いと思うんですけども「ああそうだった」とこう、求めとかなければ分からんのですよね。
 まあ色々の事分かって、分かって行く時のこの親の喜び、有り難さというものはいわゆるこれと反対ですね。親の言う事が分かる実感して分かる、それをねいわゆる私のものが子供に伝わっていきよる、そういう時のその喜び。例えばここでですね、「はあ親先生そうでした、それでした」と、例えば皆さんが分かっておいでられるね、皆さんがこうやって毎日御理解を頂いてそれを筆記して行く事が分かっていかれるとじゃないですよ。もう心からの叫びですね「これだ」と、それはどう言う事かというとね。
 もうこれを頂けばおかげを頂けれる、と言う様なものが一つ一つ身についていくという事、分かると言う事は。言わば私がおかげを受けている、ようなものを頂いて行けれると言う事が分かると言う事。話の筋が分かると言う様な事じゃない、先月若先生が大阪の方を回って参りました時に、玉水のお話を聞いてきておった。もう大変な御比礼ですね、ですからまあ皆がそういう、あこがれを持ってるですねえ教師信者を問わず、どうして玉水だけがあれだけ人が集まるじゃろうか、というふうに考えるわけです。
 玉水の先生にある先生がですねえ、先生人が助かって行くと言う事にはどういう教導のこつがあるでしょうか、とこういうしたら玉水の先生が言われた。「先生あなたにはあの沢山な人間氏子ですね、氏子が助けて下さいというあの声が聞こえますか。私にはそれが聞こえます」と言わっしゃった。そん時私はですね、こう感じたんです。私には聞こえない、私にはけれどもですね、私は何時も思うんですけども。
 昨日もこの事を話したんですがね、もう本当に例えば、この石庭なら石庭ひとつ眺めても、不思議で不思議でたまらん働きがありよろうがと、私が言うのです。ここのお広前一遍どうりグリッと周ってみれ、ここから見えるあの脇殿の、八波の御紋章の擬宝珠が打ってございますね。あの事から私が話すんです、ここに天地岩が配石してある、その事からここの庭の事から、これだけのことだって不思議で不思議でたまらん事があろうが、これはどう言う事かと言うとね。
 私にはね皆の助けを求めるその声は聞こえない。けれどもね、天地の親神様がどうぞして氏子を助けたいという、それこそ絶叫しておられるその声が、いつも聞こえる私自信がおかげを受けてというおかげの、驗をここに現して、「こういうおかげが皆んなにも受けられるのぞと。どうぞ信心しておかげをうけてくれよ、助かってくれよ」という、それがですね。私には聞こえて来る。
 こらここにもう一つ私がですね玉水の先生じゃないけれども助かりたい、というて切実に叫んでおる人達の声が聞こえる様になったらいよいよ合楽の御比礼も、もっと変わるだろうなあと私は思ッタンデスケド、ところが果たして本とに助かりたいというてね、その助かりを願い求めておる人が、果してどのくらいあろうかとこう思う、私はそこに疑問を感じるのです。いろんな合楽に御神縁を頂いている人が、皆が本当に助かりたいと思うておるか、私しゃ何時も疑問を感じるですね。
 こういう不思議な不思議な、どんなに考えても不思議でたまらん、神様の働きの中に浸っておっても、そういう不思議な働きは、自分の信心の上に現れて来るというか、心に頂けるような助かりを求めておるかどうかが、疑問である。神様のどうぞ信心しておかげを受けてくれよ、といわれるその声は、これは私はね自分の身を通して、感ずることが出来る。ここに現れているいわゆる有形無形のです、神様のおかげの中からそれを感ずることが出来るです。
 皆さんがお取次を頂かれて、こういう難儀な事になっていますが、どうぞよろしくお願いします、成程それは聞こえる、実際に言われるんだから。だからほんとに助かりたいと念を押したい気持ちがするね。本当に助かりたいとなら助かられる為の、私は姿勢というものを自分で見極めなければ、これはいくら助けて下さいと言うたっちゃ、これでは助からんと言う言を、そこに私は何時も疑問を感ずるのですよ。
 神様は絶対此の方大坪総一郎が、金光大神のお取次によって、天地の親神様のおかげを受けられるようになった。その私がおかげを受けられる事を、そのひとつの証しをね、皆さんにも聞いたり見たりしてもらいながら、こういうおかげが受けられるから、「こうありなさいよ、こう改まりなさいよ、こういう信心しなさいよ」とね、昨日私その方じゃないですけれども、いうならばまだ今時の50と言ゃ、それこそ鼻たれ小僧これからだと言うて元気を出していく人がある。
 そこに私は本当の生きがいを感じて、それからを又改まった生活に入って行く人もあるけれどもです。これから生きて行く生きがいがない、けれども例えば仮にもこういう有り難い所へ、まあ縁の端くれにでも、この縁の綱というものを、たぐってさえいけばおかげの受けられる、いはばお繰り合わせを頂きながらもです、耳に入らない疑うておるわけじゃなかろうけれどもね、疑うて聞かぬ者は是非に及ばずとこう仰言るが、疑う訳でもなかろうけれどもそれを聞こうとしない。
 それかというて助けを求めとらん訳はないけれども、本当に助かりを求めていないと言う事。ですから先生の言われることはね半分聞いときゃええ、先生の言われる事は十分の一聞いときゃよかと、言う様な考え方ではね、おかげは受けられないて、全部そのまま聞かせてもろうてそれでもそう願いながらも、生身をもっている私はできない、そこん所はです私は詫びれば許してやりたい、というのが親心だとおっしゃるから、お詫びによってすがって行けばいいんですよ。
 もう第一先生の言いなさることの、その十分の一でも守ろうと心掛けない。此の方大坪総一郎の言う事を聞こうとしない。それで助かりたいと思うているのは本当の助かりを求めているのじゃない。そこにこれは金光大神ならずとも、本当にしょうがないなあ、可愛いものじゃと言う事になってくるんですよ。ほんとにいくら言うたちゃそれが分からん、というならば私が言い思うことになって来る。子供をもって合点せよと、こう仰言るが、本とにひとつ子供を持って合点せねばなりません。
 言う事を聞かぬ子は親でも仕方がない、そしてその言う事を聞かぬ事をですね、もう当たり前のように思うておる人がいるです。言う事を聞かせきらん事を棚に上げて言う事を聞かん、もう私共も若いときは親の言う事を聞かじゃったじゃから、子供が言う事聞く筈ありませんという人がある、だから親先生の言う事を聞くはずがなか、そげな考えじゃけ。成程自分達も親に不幸をしてきて親の言う事を聞かなかったと、けどこれではですね、親がどんなにか切なかったろうとこう言う事。
 自分が親になって分る事はです、親の思いが子供に分からんと言う事がです、本当にこれでは親子とも助かりようがないから、そこを神様に縋って子供が親の言う事をきく為には、私にはどうぞ神様あなたの心を分からして下さい、ああたの言う事を聞かして下さい、子供には私の思いを分からして下さい、言う事を聞かして下さいと言う様な切実な願いになってこない、だから「そりゃ仕様なかもう、私共若いときには言う事聞かじゃったちゃから」もう其れまでじゃないですかそしたら。
 今初めて親が目が覚めてから言う事を聞かん事がこんなにも、親を切ない思いにさせることである事が分かったらですね、そこに私は信心がある。親の思いが分からんから親の言う事を聞かん、わがまま勝手な事をする。神の思いが分からんから神様の言い分を聞こうとしない。けどここはやはり切実な親子の中、それをあきらめてしまえば其れまでなんだ。それでは親子とも助からんからね、そこに神様えの切実に「助けて下さい」というそのそれが必要なんだ。
 切実さと言う事がね、やはり生き生きとしてこなければね。神様あなたの思いを分からして下さい、思いが分かる所に、思いに添わなければおられんのが信心ね、そして願いとしてはです、どうぞ子供に私に親の思いを子供に分からして下さい。子供がそういう親の例えば信心なら信心についてこないはずがない、そう繰り合わせが頂ける。だからそこん所をあきらめずにですね、時節を待っておかげを受けるがよしという、どこどこ迄もあきらめた考え方ではなくて、そこをね祈り抜いて行く事が大事である。
 玉水の先生は人間氏子の助けて下さいが聞こえるとこう言われる。私本当にそのね、本当に助けて下さいが聞こえる様になったら、どの様な素晴らしいおかげになって来るだろうかと思うですね。本当の切実なですね助かりを求める信者氏子がですね、その声が聞こえる様になったら、そこにはね助かる道をもう直に教えてあげられるもん。そこでこの助かると言う事がですね、これはもう信心のこれはまあ一つの原則ですよね。
 それはね形の上の助かりと言う事ではなくてです、まず心の助かり、自分の心が助かるその心の助かりを切実に願う、「こういう苦しいことがあります」。そこん所をいわゆる形のお繰り合わせより心のお繰り合わせを願うてくる信者、心のお繰り合わせをね、頂く為に修行する、お参りをして来る、そういう信者の私は声が次々聞き取れるようになったらね、神様の「信心してお蔭を受けてくれよ」と言われる声が聞こえておるのであるから助けたい者助かりたい者、助からないはずがない、そうでしょうが。
 所が私にはです、その助かりたいというて願っておられる皆さんの声がよう聞こえん、そこの所に疑問を感ずる。いわゆる形のおかげを頂きたいという声はもうやかましかごと聞こえる。けれどもそれではいけんと言う事は、私は日々またやかましかごと言いよる。 ほんと先生が言われるようにいわゆる無形の中にです、自分の助かりがまずなからなければ、その先に有形の形のある助かりは繋がっておるものだと、いよいよ悟らせてもろうてです、本気での助かりを求めて来るところに私の耳も開けてくる。
 本当に助かりたい、そこに神様が助けたいじゃない、助かってくれよという神様の切実な願いとが、お取次の働きによって取り次ぎ助けられる、おかげになって来る。昨夜の御理解の中に、この宗教から生まれて来る感動、これはもう宗教する者でなからなければ、頂けない感動というものがある。そういう宗教的、宗教的じゃなくてね、宗教から生まれて来る、その感動のなかから、真実の助かりのおかげをこうむりたいという、願いがですね立てられる。
 ですからまずひとつ宗教、によって頂く信心の喜びと言った様なものをですね、まず身に付けなきゃならん。そういう心で真実の助かりを求めなければならん。昨日麻生さんがお届けに、私は耳が遠いから細々しい事まで聞き取れんけれども、確かに何十歳の誕生を迎えたというお届けがあった。お届けをしながら、もうえらい感動しておられる訳ですよね、まあ例えば30歳なら30歳という、30歳今日迄お生かしのおかげを頂いてから、今日ここにこうやって、改まって神様にお礼お届けさせて頂けておる。
]と言う事が感動らしいんですね。本当に信心頂いている者の有り難さはここにあると思うんです。これが普通の青年だったらどうでしょうか、今日俺の誕生日じゃけん一杯飲もうかと、と言う位な事じゃなかじゃろうかと思うです。もう誕生日ちゃ飲むもん、飲んだりにぎおうたりするもんのような。今日誕生を迎えられたと言う事にですね、まあおおげさに言うなら不思議でたまらんものを感じておるわけ。その事のお礼がいはば手厚うありましたんです。そういう信心ですね。
 私はそういう信心がお互いの信心の中身に、育っていきよるかどうか、まずね。まあ私共これは日に何回と分からん程に、その宗教の感動というものを感じる、訳分からんなりにこみあげて来るように、有り難うなって来るです。そういう私は感動をもってです、真実の助かりを求めるとね、それも形の助かりではなくてね、真実心の助かりというものをですね、求めてお参りをし求めて修行をさせて頂くならです。
 形のお繰り合わせ、いわゆる有形無形の中に、おかげを頂いたら有形のおかげはもう、それこそ不思議で不思議でたまらんおかげが、そこから頂けて来るのである。そこにね、私はあの今日私が申します疑問を感ずると、ほんとに助かりたいという願いをですね、お互いがもう一遍検討してみなきゃいけない。自分の本当に助かりたいというている願いが、どの辺の所にあって助かりたいをいうているのか。それは先生に聞こえない助かりである、神様には聞こえない助かりの言わばじゃなかろうかと。
 私もそこん所皆さんが助かりたいとゆう、この願いの声が聞きとれれるようにならなきゃならないのだけれども、幸い私には有り難いことにはです。神様が「助かってくれ」と仰言るその声はもうほんとに聞こえて来る。それは私の周辺にもうどんなに考えても、不思議で不思議でたまらんという、おかげの実証というものがです、それを見ただけでも神様が助かり助けたい、まあ勿論神様も助かりたいですね。
 その事によって神も氏子も助かってゆきたい、こういうおかげを受けられると言う事を、私くらいなものが信心の上に現しておられるという事は、もうそのままが神の声なのだ、助かられるんだと、これは大坪総一郎だけじゃない皆が助かられるんだと、だから信心して助かってくれよ、大坪総一郎が言うことを聞いてお蔭を受けてくれよという、これは証しなんだ神様の。
 それを聞こうとしない、先生の言われることは聞こうとはしない、十のうち半分聞いときゃよか、1つ聞いときゃよかというものじゃなくてです。其のことを本とに言う事を聞く気になってです、それでもでけん所は仕方がないからわびていけね。昨日若先生が言うんですよ、「この4時の御祈念がこうして仕えられるようになってから、兎に角親先生が休んでもらわんと僕たちが休まれんて」「そげな事があるもんか、休まれんて思うとるそれでよかて」私が言う。
 だからね恐らくこのなら夏の修行から、4時の御祈念が始まっておるが、4時の御祈念、朝の御祈念、夏の心行期間がすんだらやめられるというものじゃないのだ。ようやく4時の御祈念の味わいが、お父さんに分かってきよるのだから、恐らくは終生続くことだろうとこう言う。そすとお父さんに気兼ねして、休まれんと言う様な事になったんじゃできんから、休んでよかどこじゃない。けれどもね休んじゃ馬鹿らしかと言う事が段々分かってきたら休むな、それまで休んでいい。
 お父さんもそりゃもう何かこうそれこそ有り難うなりたい為に、又有り難うしてこたえんなりの修行なのだから、恐らくこの4時の御祈念は合楽の続く限り、お父さんがある限り続くことだろうから、それ迄気兼ねすることはいらん、そう言うて話した事です。ですからそのお父さんの信心を本当に頂こうとする、分かろうとする。私そういう姿勢を若先生の信心からは何時も有り難いと感じとる事が出来る。そのお父さんの真似はでけん、けれどもそれをでけんと言うて、そのやはりそれに努めようとは思う。
 又努めようとはする、けれども出来ない、そこをだから詫びていきゃいいのだと、そして段々ならお父さんだって、初めからこんなに有り難いと言う事もなかったし、初めからそれが出来る、もうこんくらいで良いと思った時代もあったんだから。かというてこれがね、現在のこの合楽の信心のスタイルというものがですね、これで良いとはいっちょん思うとらん、まだ限りなくおそらく変わって行くだろうと。それが又楽しみ、まあいうならばそれが生きがいなのだ。
 昨日はここの久留米の出社何十箇所の教会の先生方が、一泊で熊本の天草五橋ですか、あちらの方へ一泊旅行が、慰安旅行があっとります。勿論あちらの会からお金が出るんです。私はもう行きたいとも思わん、行きたいと思う思わんは兎に角一日ここを空かすことの方が辛いです。若先生にあんた代わりに行くかと言うたら、はあ僕も行かんとこう言うね、と言う様にですね、親の心が段々分かって自分もそういう風におかげを頂いて行けれておると言う事がですね、有り難いとこう思う。
 ですから例えば親先生の、例えば十のものが一つでも自分のものになって行く事を真剣に願っておると言う事がですね、私は助かりを求めておることだとこう思うのです。だから本当に助かりを求めると言う事はね、時折それだったそこが分からなかった、と何時も言いよるけれどもその中からです、そういうものそういう声をですね、私は聞きたいと思うです。ただ信心が詳しくなって行くだけではなくて、そこには私は本気での助かりと、と言う事が願われ本当の助かりというものの焦点が。
 これで良いのかと何時も検討して行かなければいけない。神様がどうぞ信心して助かってくれよという、その神様の悲痛なまでのお声は私はもう本当に聞こえて来る。だから皆さんが切実に「助かりたい」という願いを立てられるならです、その願いが私にも聞こえて来るようになる。その願いが聞こえた時にです、私は神様の助けたい助かりたいとが一つになってほんとのおかげになって行くのだというふうに思うのです。
 此の方金光大神が天地金乃神より、おかげを受けて来たことを話にして残しておくとね、金光大神が言う事を疑うて聞かぬ者は仕方がないという、そこんところをです、ひとつ此の方大坪総一郎がお蔭を受けて来た事をです、皆さんに聞いてもらうのです。ですから全部そのまま皆さんが、そうだと疑わずに、又いい加減にせずに頂いて、それが出来るでけんはです、それでいいんだて、でけない所は詫びて行け。
 そういう私は姿勢の中からですね、お道のほんとの助かりというものがあるんだと思うです。これはほんとに私が思うこと。皆さんがおかげ頂きたいとこう言われるけれども、本当におかげ頂きたいと思うておられるだろうかと言う事です。ほんとにそれを思うておるならば、私の言う事を聞かなければお蔭は受けられないてね、ここん所は皆さん分かって頂きたいと思うですね。
   どうぞ。